歎異抄の現代語訳(対訳)

目次

前序 歎異抄を書いた目的

前序
原文 現代語訳
ひそかに愚案を廻らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、 ひそかに愚かな思いをめぐらせて、かつて親鸞聖人から教えて頂くことができたあの頃と、今日を考えてみますと、聖人から直接教えて頂いた他力真実の信心と、異なることが説かれているのは、なんと嘆かわしいことでしょうか。
これでは聖人の教えを学ぶ後輩が、正しく学び、伝えるのに、疑いや惑いが生じかねません。  
幸いに有縁の知識によらずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。 幸いにも正しい仏教の先生におあいし、導きを受けなければ、どうして真実の仏教の教えを学び、阿弥陀仏の救いにあうことができるでしょうか。
まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。 決して、自分の考えで、真実の仏教の教えを乱してはならないのです。
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す。 そこで、今は亡き親鸞聖人がよく語って下された、耳の底に残る忘れられない御言葉を少しでも書き残しておきたいと思います。
ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなり。 これはひとえに親鸞聖人の教えを学び求める同志の不審をはらしたいからなのです。

第1章 善も欲しからず悪をも恐れず

第1章
原文 現代語訳
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と 信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。 「すべての人を救う」という、阿弥陀仏の不思議なお約束に助けられ、いつ死んでも極楽往き間違いなしの身となって、お礼の念仏称えようと思いたつ心のおきた時、おさめとって捨てられない、絶対の幸福に生かされたのです。  
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 阿弥陀仏の救いには、年老いた人も、若い人も、善人も、悪人も、一切の差別はありません。ただ、真実の信心一つで救われるのです。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。 なぜ悪人でも、阿弥陀仏の本願を信ずる一つで救われるのかといえば、煩悩の激しい、最も罪の重い悪人を助けるために立てられたのが、阿弥陀仏の本願だからです。
しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる べき善なきがゆえに、悪をもおそるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々。

ですから、この世で阿弥陀仏の本願に救い摂られたならば、往生の一段においては、一切の善は無用となります。阿弥陀仏から頂いた念仏以上の善はないからです。
また、どんな悪を犯しても、死んだら地獄へ堕ちるのではなかろうかという不安やおそれはまったくなくなります。阿弥陀仏の本願で助からない悪はないからです、と親鸞聖人は仰せになりました。


第2章 地獄は一定すみかぞかし

第2章
原文 現代語訳
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめた まう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。 そなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から命をかけて、この親鸞を訪ねられたお気持は、極楽に生まれる道ただ一つ、問いただすが為であろう。  
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしまして はんべらば、大きなる誤りなり。 だがもし親鸞が、阿弥陀仏の本願のほかに、助かる道や、秘密の法文を知っているのではなかろうかと、この親鸞をいぶかっての参上ならば、とんでもない誤りであり、まことにもって悲しい限りである。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。 それほど信じられぬ親鸞ならば、奈良や比叡にでも行かれるがよい。
あそこには立派な学者が、たくさんいなさるから、それらの方々に、後生の助かる道、とくとお聞きなさるがよかろう。
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教えるよき人・法然上人の仰せにしたがい、信ずるほかに、何もないのだ。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。 念仏は地獄へ行く悪い言葉という者があるようだが、そういうことなのか、それとも20年間教えてきたように、極楽へ往くたねか、今さらこの親鸞に、言わせるおつもりか。まったくもって親鸞の知るところではない。
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。 たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちても、親鸞何の後悔もないのだ。
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を 申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という 後悔も候わめ。 なぜならば、念仏以外の修行に励んで仏になれる私が、念仏したから地獄に堕ちたのであれば、だまされたという後悔もあろう。
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 だが、微塵の善もできない親鸞は、地獄のほかに行き場がないのである。
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か。 ああ、弥陀の本願まことだった。
弥陀の本願まことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。
善導の御釈がまことならば、そのまま教えられた、法然上人の仰せにウソ偽りがあろうはずがないではないか。
法然の仰せがまことならば、そのまま伝える親鸞の言うことも、そらごととは言えぬのではなかろうか。
詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり、と云々。 いくら言っても親鸞の信心、このほか何もござらぬ。
この上は念仏を捨てようと、親鸞に同心して、念仏を信じたてまつろうとも、おのおのがたの、勝手になさるがよかろう、と聖人は仰せになりました。

第3章 悪人こそが救われる 悪人正機

第3章
原文 現代語訳
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。 善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。  
しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。 ところが、世間の人は常に「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」と言っています。
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり。 これは一見それらしく聞こえますが、阿弥陀仏が本願を建てられた趣旨に反するのです。  
そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる間、弥陀の本願にあらず。 なぜならば自分の力で後生の一大事の解決をしようとしている間は、他力をたのむことができないので、阿弥陀仏のお約束の対象にはならないのです。
しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり。 しかし、自力をすてて他力に帰すれば、真実の浄土へ往くことができるのです。  
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。 欲や怒りや愚痴などの煩悩でできている私たちは、どうやっても迷いを離れることができないのを、阿弥陀仏がかわいそうに思われて本願をおこされたねらいは、悪人成仏のためですから、阿弥陀仏のお力によって、自惚れをはぎとられ、醜い自己を100%照らし抜かれた人こそが、この世から永遠の幸福に生かされ、死んで極楽へ往くことができるのです。  
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき。 それで、善人でさえ助かるのだから、まして悪人はなおさら助かる、と仰せになったのです。  

第4章 慈悲といっても2つある

第4章
原文 現代語訳
慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。 慈悲といっても、聖道仏教と浄土仏教では違いがあります。  
聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。 聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものをあわれみ、いとおしみ、大切に守り育てることをいいます。
しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。 しかしながら、どんなに頑張っても、思うように満足に助けきることは、ほとんどありえないのです。
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。 浄土仏教で教える慈悲とは、はやく阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称えて仏になる身となって、大慈悲心をもって思う存分人々を救うことをいうのです。
今生に、いかにいとおし不便と思うとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。 この世でどんなにかわいそうに、何とかしてやりたいと思っても、ご承知の通り、助けきることは難しいですから、聖道の慈悲は、一時的で徹底しないのです。
しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき、と云々。 だから、阿弥陀仏の本願に救われて、お礼の念仏を称える身になることのみが、徹底した大慈悲心なのです、と親鸞聖人は仰せになりました。

第5章 念仏一返未だ候わず

第5章
原文 現代語訳
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。 この親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏いっぺんたりとも称えたことは、いまだかつてないのです。  
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。 なぜなら、すべての生きとし生けるものは、みな、生まれ変わりを繰り返す中で、いつの世か、父母兄弟であったことでしょう。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。 そんな懐かしい人たちを、今生で阿弥陀仏に救われ、次の世には仏に生まれて助けなければなりません。
わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ、ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁を度すべきなり、と云々。 それが自分の力で励む善なのであれば、念仏をさしむけて父母を助けることもできましょう。しかし、善などできる私ではなかったのです。
ただ、自力をすてて阿弥陀仏の本願に救われ、仏のさとりを開けば、迷いの世界でどんな苦しみに沈んでも、仏の方便によってご縁のある人を救うことができるでしょう、 と親鸞聖人はおっしゃいました。

第6章 親鸞弟子一人も持たず

第6章
原文 現代語訳
専修念仏の輩の、「わが弟子、ひとの弟子」という相論の候らんこと、もってのほかの子細なり。 阿弥陀仏の救いを聞かせていたただいている人の、「あの人は私の弟子だ、あの人は人の弟子だ」という争いは、もってのほかのあやまりです。  
親鸞は弟子一人ももたず候。 この親鸞は、一人の弟子もありません。
そのゆえは、わが計らいにて人に念仏を申させ候わばこそ、弟子にても候わめ、ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申し候人を、「わが弟子」と申すこと、極めたる荒涼のことなり。 なぜなら、私が教えてみなさんが阿弥陀仏に救われたのならば、私の弟子ともいえるかもしれません。
しかし、みなさんが仏法を聞き始められたのも、求められたのも、阿弥陀仏に救われたのも、まったく阿弥陀仏のお力によってなのですから、そんな人を「私の弟子だ」などというのはとんでもない傲慢なことです。
つくべき縁あれば伴い、離るべき縁あれば離るることのあるをも、「師を背きて人につれて念仏すれば、往生すべからざるものなり」なんどいうこと不可説なり。 縁あれば連れ添い、なくなれば別れることもあります。
師匠に背いて他の人について阿弥陀仏に救われたら、死んで極楽へ往くことはできないなどと、いえるものではありません。
如来より賜りたる信心を、わがもの顔に取り返さんと申すにや。 阿弥陀仏から頂いた真実の信心を、わがもの顔に取り返そうというのでしょうか。
かえすがえすも、あるべからざることなり。 重ねて念を押しますが、あってはならないことなのです。
自然の理にあいかなわば、仏恩をも知り、また師の恩をも知るべきなり、と云々。 真実の阿弥陀仏の救いにあえば、阿弥陀仏の御恩も知らされ、それを伝えて下された先生のご恩も知ることになるでしょう、とおっしゃいました。

第7章 念仏者は無碍の一道

第7章
原文 現代語訳
念仏者は無碍の一道なり。 阿弥陀仏に救われた人は一切がさわりとならない無碍の一道という世界に出ます。  
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。 なぜならば、阿弥陀仏から救われ、真実の信心を頂いた人には、天地の神も敬って頭を下げ、魔の世界の者、真理に外れた道の者もさまたげることはできないのです。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。 罪悪の報いも苦とはならず、どんな努力も及ばないから、一切がさわりとならない、絶対の幸福なのです、と親鸞聖人はおっしゃいました。

第8章 人生の目的を完成した他力の念仏

第8章
原文 現代語訳
念仏は行者のために非行・非善なり。 念仏は、阿弥陀仏に救われて人生の目的を完成した人にとって、行でもなければ善でもない。  
わが計らいにて行ずるにあらざれば非行という、わが計らいにてつくる善にもあらざれば非善という。 阿弥陀仏に救われたならば、自分の力で後生の一大事助かろうとして称えるのではないから、私の行でもないし、私の善でもない。
ひとえに他力にして自力を離れたるゆえに、行者のためには非行・非善なり、と云々。 ひとえに阿弥陀仏のお力で称えさせられる他力の念仏であって、自力を離れているのだから、阿弥陀仏に救われた人にとっては、行でも、善でもないのです、とおっしゃいました。

第9章 浄土は恋しからず候

第9章
原文 現代語訳
「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、 「念仏称えても、喜ぶ心がおきません。また、はやく極楽へいきたいという心もありません。どうしてでしょうか」と親鸞聖人にお尋ねしましたところ、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり。 「親鸞もこの心、疑問に思っていたのだが、唯円房おまえもか。
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。 よくよく考えてみれば、天におどり地におどるほどに喜ばねばならないことを、喜ばないところが、いよいよいつ死んでも極楽参り間違いなしと思わずにおれないのだ。
喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。 喜ばねばならないところ、喜ばせないのは、煩悩のしわざである。
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。 しかるに阿弥陀仏は、百もご承知で、煩悩具足の凡夫を助けると仰せられのだから、他力の悲願は、このような私たちのためであったと知らされて、いよいよ頼もしく、喜ばずにおれないのだ。
また浄土へ急ぎ参りたき心のなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんと心細く覚ゆることも、煩悩の所為なり。 また、早く極楽へ往きたいという心もなくて、少し病気になると死ぬのではなかろうかと、心細く思うのも煩悩のしわざである。
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。 阿弥陀仏に救われた今、もう迷いの世界と縁切りで、二度と迷うことはないと思うと、はてしなき遠い過去から、今日まで生まれ変わり死に変わり迷い続けてきた苦悩の世界はなつかしく、まだ見ぬ阿弥陀仏の極楽浄土は少しも恋しいと思えないところが、これまたよほどの煩悩のさかんな私であることよ。
名残惜しく思えども、娑婆の縁つきて力なくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。 名残おしいことだが、娑婆の縁つきて、この命終われば、阿弥陀仏の極楽参りは間違いない。
急ぎ参りたき心なき者を、ことに憐れみたまうなり。 はやく極楽にいきたいという心のない迷いの深い者をことさら阿弥陀仏は憐れんでくだされたのだ。
これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え。 それを思えば、いよいよ阿弥陀仏の大慈悲のたのもしく、極楽参り間違いないと思わずにおれないではないか。
踊躍歓喜の心もあり、急ぎ浄土へも参りたく候わんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候いなまし」と云々。 それを、喜びの心があり、早く極楽にいきたいと思っていたら煩悩具足ではないのではないかとあやしく思うのではないだろうか、とおっしゃいました。

第10章 念仏には無義をもって義とす

第10章
原文 現代語訳
念仏には無義をもって義とす。 阿弥陀仏に救われた人の称える他力の念仏は、一切の自力のはからいを離れているのです。
不可称・不可説・不可思議のゆえに、と仰せ候いき。 それは、言うことも説くことも、想像することもできないのですから、とおっしゃいました。  

別序 間違いの横行する最近の様子

別序
原文 現代語訳
そもそもかの御在生の昔、同じ志にして歩みを遼遠の洛陽に励まし、 信を一つにして心を当来の報土にかけし輩は、同時に御意趣を承り しかども、 そもそも親鸞聖人が生きておられた頃は、同じ志をもって、関東からはるばる京都まで足を運び、親鸞聖人と同じ真実の信心をえて、極楽浄土へ生まれたいと願った人たちは、直接親鸞聖人から御教導頂くことができたので、大変な有り難いことでしたが、  
その人々に伴いて念仏申さるる老若、その数を知らず おわします中に、聖人の仰せにあらざる異義どもを、近来は多く 仰せられおうて候由、伝え承る。 その人たちから仏法を聞き、念仏する人が多くなるにつれて、親鸞聖人がおっしゃらななかったことが、最近は、盛んに説かれていると伝え聞いています。
いわれなき条々の子細のこと。 そのとんでもない説と、その問題点をこれから述べましょう。

第11章 誓願不思議と名号不思議は別のこと?

第11章
原文 現代語訳
 一文不通の輩の念仏申すにおうて、「汝は誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と言い驚かして、二つの不思議の子細をも分明に言いひらかずして、人の心を惑わすこと。 あまり字も知らず、学問もしていないような人に「お前は誓願不思議を信じて念仏称えているのか名号不思議を信じているのか?」と言って人を驚かせ分かるように説明もしないで、惑わせ喜んでいる者がいる。
この条、かえすがえすも心をとどめて思い分くべきことなり。 なぜこんな訳の分からないことを言うのでしょうか。情けないことです。
誓願の不思議によりて、たもちやすく、称えやすき名号を案じ出したまいて、「この名字を称えん者を迎えとらん」と御約束あることなれば、まず「弥陀の大悲大願の不思議に助けられまいらせて生死を出ずべし」と信じて、「念仏の申さるるも、如来の御計らいなり」と思えば、少しも自らの計らい交わらざるがゆえに、本願に相応して実報土に往生するなり。
本師本仏の阿弥陀仏が、助かる縁手がかりのない、諸仏の見捨てた私たちを助けるために、どんな人も救う力のある南無阿弥陀仏の六字の名号を作って、その名号を与えて救うとお約束されているのだから、その本願によって完成した名号を頂いて、いつ死んでも極楽参り間違いなしの身に救い摂られたならば、その喜びからお礼の念仏を称えずにおれなくなります。これを「信心獲得」とも「信心決定」ともいいます。救われるために励む自力の心はまったくありませんから、阿弥陀仏のお約束の通り、死ねば極楽浄土へ往くのです。
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願・名号の不思議一つにして、さらに異なることなきなり。 信心決定して、弥陀の本願まことだったと知らされたときが、名号を頂いて、身も心も南無阿弥陀仏、仏凡一体になったときですから、本願に救われたといっても、名号に救われたといっても、まったく異なるところはありません。本願と名号はイコールです。
 次に自らの計らいをさしはさみて、善悪の二つにつきて、往生の助け・障り、二様に思うは、誓願の不思議をばたのまずして、わが心に往生の業を励みて、申すところの念仏をも自行になすなり。この人は、名号の不思議をもまた信ぜざるなり。 ちなみに自力の心というのは、身口意の三業をよくして後生の一大事助かろうという心です。後生を遠くに眺めているときは気づきませんが、仏法を聞いて、後生の一大事が知らされて来ると出てきます。そして最後、自力が廃った一念に他力に入ります。自力の間は他力に入れませんし、他力に入ると自力は一切なくなります。ですから、こんなに善に励んでいるから助かるだろうとか、こんな悪しか思わない自分は助からないのではなかろうかと思うのは、自力の心ですから、まだ弥陀の本願に救われていないのです。本願に救われずに、自分の心の善し悪しで安心しようとしたり不安になったりして念仏を称えているのは、自力の念仏です。こんな心で念仏を称えている人は、まだ名号によっても救われていないのです。
信ぜざれども、辺地・懈慢・疑城・胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議の力なり。 ただ、信心決定していなくても、もし毎日何万回も念仏を称えて、正念往生し、臨終来迎にあえた人がいれば、化土に生まれて、やがては阿弥陀仏の願力によって報土に生まれるのですが、その場合は、これも名号の働きです。
これすなわち誓願不思議のゆえなれば、ただ一つなるべし。 これはとりもなおさず、阿弥陀仏の願力によるものなのですから、本願も名号も一つなのです。しかし、これでは化土に生まれられるかどうかは、死んでみないと分かりませんから、死ぬまで助からないということです。親鸞聖人の教えは「平生業成」、生きているときに往生一定、いつ死んでも極楽参り間違いなしの絶対の幸福に救われるのですから、一日もはやく信心決定して、本願まことと知らされるところまで仏法を聞きなされ。

第12章 教学しなければ助からない?

第12章
原文 現代語訳
経釈を読み学せざる輩、往生不定の由のこと。この条、すこぶる不足言の義と言いつべし。 経典やその解釈を勉学しない人は、弥陀の浄土へ往生できないという邪義について。非常に言うに足りない誤りです。
他力真実の旨を明かせる諸の聖教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほか何の学問かは往生の要なるべきや。 阿弥陀仏の本願を明らかにしているたくさんの仏教の本を学ぶと分かることは、信心決定してお礼の念仏を称える身になれば、死ねば仏になれるということです。どこに学問をしなければ助からないと教えられているでしょうか。
まことにこの理に迷えらん人は、いかにもいかにも学問して、本願の旨を知るべきなり。 こんな間違った理解をしている人は、もっともっと教学を勉強して、本願に救われるところまで進みなさい。
経釈を読み学すといえども、聖教の本意を心得ざる条、もっとも不便のことなり。 せっかく仏教の本を読んでいても、その心が分からないというのは、本当に残念なことです。
一文不通にして経釈の行く路も知らざらん人の、称えやすからんための名号におわしますゆえに、易行という。 読み書きができず、仏教の本が読めない人でも、名号を頂く一つで救われるので易行道というのです。
学問を旨とするは聖道門なり、難行と名づく。 教学をしなければ助からないのは天台宗や真言宗のような聖道門の仏教です。難行道で言われることなのです。
「あやまって学問して名聞利養のおもいに住する人、順次の往生いかがあらんずらん」という証文も候べきや。 また「名誉や金儲けのために学問をするような人は、死んだら極楽へ往けるかどうか分かりませんよ」という言葉もあります。
当時、専修念仏の人と聖道門の人、諍論を企てて、「わが宗こそ勝れたれ、人の宗は劣りなり」と言うほどに、法敵も出で来り、謗法もおこる。 そういえば最近、浄土門の者が、名誉欲によって聖道門の人に論争をふっかけて「私の教えのほうが正しい、お前らは劣っている」などと言っているから、相手が腹を立てて法敵も現れ、仏法を謗ることにもなるのです。
これしかしながら、自らわが法を破謗するにあらずや。 これでは自ら阿弥陀仏の本願を謗らせるようなものではないでしょうか。
たとい諸門こぞりて「念仏はかいなき人のためなり、その宗浅しいやし」と言うとも、さらに争わずして、「我らがごとく下根の凡夫、一文不通の者の、信ずれば助かる由、承りて信じ候えば、さらに上根の人のためにはいやしくとも、我らがためには最上の法にてまします。 たとえ聖道門の色々な宗派の人たちが、総がかりで「浄土門は劣った人のための浅い教えだ」と言ってきたとしても、決して感情的にならず、「私たちのような悪しかできない者も、信ずる一念で救うと、阿弥陀仏はお約束なされています。善のできる人には問題にはならないでしょうが、諸仏に見捨てられた私たちには、阿弥陀仏の本願以外に救われる道はありません。
たとい自余の教法は勝れたりとも、自らがためには器量及ばざれば、つとめがたし。 出家して厳しい戒律を守り、命がけの修行をする難行の教えも、お釈迦さまの説かれた尊い仏法ですから、教えの通り実行できればさとりをえられると思いますが、私のような者には、到底及びもつかないのです。
我も人も生死を離れんことこそ諸仏の御本意にておわしませば、御妨げあるべからず」とて、にくい気せずは、誰の人かありて仇をなすべきや。 仏方は、相手に応じて導いておられるのですから、邪魔することはないのではないでしょうか」などと、相手が腹を立てないような言い方を考えて破邪顕正すれば、いたずらに謗法の大罪を造らせることもないでしょう。
かつは「諍論のところには諸の煩悩おこる、智者遠離すべき」由の証文候にこそ。 それに「論争をすると感情的になるので、智慧のある人は、冷静に話を進めなければならない」というお言葉もあります。
故聖人の仰せには、「『この法をば信ずる衆生もあり、謗る衆生もあるべし』と、仏説きおかせたまいたることなれば、我はすでに信じたてまつる、また人ありて謗るにて、仏説まことなりけりと知られ候。しかれば『往生はいよいよ一定』と思いたまうべきなり。 三大諍論をはじめ、生涯にわたって破邪顕正せられ、八方総攻撃の的であった親鸞聖人は、かつて、謗ってくる人についてこうおっしゃったことがあります。「お釈迦さまが『信ずる人もあれば、謗る人もある』と説かれている阿弥陀仏の本願なのだ。幸いにもこの親鸞はすでに信じて救われた。そして謗ってくる人があると、お釈迦さまの説かれた通りだったと知らされて、いよいよ力がわいてくる。『自ら信じ人に教えて信ぜしめることは、難きが中にうたた更に難し。大悲を伝えて普く化す、真に仏恩を報ずるに成る』自ら信心決定することが難しい。人に教えてそこまで導くことはなお難しい。しかし、その困難をやり遂げて、一人でも多くの人に阿弥陀仏の本願を伝えることが、一番の仏恩報謝なのだ。謗られれば謗られるほど、仏説まことと知らされて、ますます前進せずにおれない。
あやまって謗る人の候わざらんにこそ、『いかに信ずる人はあれども、謗る人のなきやらん』ともおぼえ候いぬべけれ。 もしそれで、謗る人がなかったならば、逆に『お釈迦さまが説かれたことは本当だろうか』という思いも出てくるだろう。
かく申せばとて、必ず人に謗られんとにはあらず。仏のかねて信謗ともにあるべき旨を知ろしめして、『人の疑いをあらせじ』と説きおかせたまうことを申すなり」とこそ候いしか。 しかしこう言ったからといって、必ず人に謗られなければならないということではない。お釈迦さまは『そんな尊い法なのに、なんで謗る人があるんですか?』と疑問を起こさせないように、あらかじめ謗る人もあることを教えてくだされたのだ」とにっこり微笑んで、教えてくだされたものです。
今の世には、学問して人の謗りをやめ、ひとえに論義問答旨とせんとかまえられ候にや。

このように教えられているのですから、今からは決して人を言い負かして謗ったり、論争して勝った負けたという名利のための教学をしてはなりません。お釈迦さまはじめ善知識方は、一人でも多くの人が阿弥陀仏の本願に救われるように、教えを明らかにされ、破邪顕正されているのです。

学問せば、いよいよ如来の御本意を知り、悲願の広大の旨をも存知して、「いやしからん身にて往生はいかが」なんどと危ぶまん人にも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説き聞かせられ候わばこそ、学匠の甲斐にても候わめ、たまたま何心もなく本願に相応して念仏する人をも、「学問してこそ」なんどと言いおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。 その教えを学んだならば、いよいよ阿弥陀仏の本願を正しく知り、その広大さを知らされて「自分のような者が助かるのだろうか」と不安に思っている人にも、どんな人でも救う本願だと説き聞かせたならば、教学を学んだ甲斐もあったというものでしょう。自力を捨てて弥陀の本願に救われ、お礼の念仏を称えている人を「学問したからだ」などと驚かすのは、仏法を破壊する仏のかたきです。
自ら他力の信心欠くるのみならず、あやまって他を迷わさんとす。 自らが救われないのみならず、他の人をも迷わせることにもなります。
つつしんで恐るべし、先師の御心に背くことを。かねて憐れむべし、弥陀の本願にあらざることを。 ただしこれを聞いて、つつしんで恐れるべきことは、決して、教学をしなくてもいいとか、仏法を伝えなくてもいいなどと、親鸞聖人の御心に背いてはなりません。阿弥陀仏の本願を聞き誤っては救われませんから、それはあわれむべきことです。正しく教えを学び、一人でも多くの人と共に絶対の幸福になれるよう、仏法を伝え、聞法精進させて頂きましょう。

第13章 本願ぼこりは助からない?

第13章
原文 現代語訳
弥陀の本願不思議におわしませばとて悪をおそれざるは、 また本願ぼこりとて往生かなうべからずということ。 「『阿弥陀仏の本願には底がないから、どんな悪をしても助かるのだ』というのは、本願ぼこりといって、助からない者だ」という誤りについて。  
この条、本願を疑う、善悪の宿業を心得ざるなり。 こんなことを言っている者は、阿弥陀仏の本願を疑い、過去世の業を知らない者なのです。 
善き心のおこるも宿善のもよおすゆえなり。悪事の思われせらるるも悪業の計らうゆえなり。 果てしのない遠い過去から生まれ変わり死に変わりを重ねている私たちですが、今生に人間に生まれるまでを過去世といいます。その間の行いは、すべて結果を生み出す因となって、阿頼耶識という蔵のような心に蓄えられています。この阿頼耶識に蓄えられた過去世の業を宿業といいます。やがて縁が来て、その業力と結びつくと、結果となって現れるのです。ですからすべての結果には、必ず因があります。廃悪修善の心が強く、善いことをしようと思うのは過去世に善いたねをまいたからです。廃悪修善の心が弱く、悪いことを思ったりしたりするのも、過去の悪い業のためなのです。  
故聖人の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにいる塵ばかりも、 つくる罪の宿業にあらずということなしと知るべし」と候いき。

今は亡き親鸞聖人は「兎や羊の毛の先の塵のように極めて小さい、どんなに些細な罪も、過去に造らない罪はないから、宿業として阿頼耶識におさまっていない罪は一つもないのだ」と教えて下さったことがあります。阿弥陀如来に救われて、真実の自己がハッキリすれば、どんな悪業も、ないたねなし、まかぬたねなしと知らされるのです。

 またあるとき、「唯円房はわが言うことをば信ずるか」と仰せの候いし間、 またあるときこんなことがありました。親鸞聖人が「唯円房、そなた、私の言うことを信ずるか」とおっしゃったので、  
 「さん候」と申し候いしかば、 「もちろんでございます、聖人さまのおっしゃることなら、私は何でも行います」とお答えすると、  
「さらば言わんこと違うまじきか」と重ねて仰せの候いし間、つつしんで領状申して候いしかば、 「本当だな、二言はないな」と念を押されるので「はい、それはもう二言はございません。おっしゃることは何なりと従います」とお答えしました。  
「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」と仰せ候いしとき、 すると「では言おう。たとえば人を千人殺してこい。そうしたらいつ死んでも極楽往ける身になるよ」とおっしゃった。  
「仰せにては候えども、一人もこの身の器量にては殺しつべしともおぼえず候」と申して候いしかば、 そのとき「ああそれは、親鸞聖人のおっしゃることでも、この唯円の能力では、千人どころか一人も殺すことはできません」と申し上げると、  
「さてはいかに親鸞が言うことを違うまじきとは言うぞ」と。 「それでは二回も親鸞の言うことを聞くと言っていたのはどうなったのだ?」と言われました。  
「これにて知るべし、何事も心にまかせたることならば、往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。 「これで分かるだろう。何ごとも自分の思った通りにできるのなら、極楽参りの為に人を千人殺せと言われたら、素直に殺しに行くだろう。  
しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。 しかし一人も殺すことできないのは、そういう縁がそなたにないからだ。  
わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰せの候いしは、 そなたの心が善いから殺さないのではない。 もしそなたにそういう縁がくれば、そんなことをしてはいけないと思っても、百人千人と殺すのだ」とおっしゃったのは、  
我らが心の善きをば善しと思い、 悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを、仰せの候いしなり。 善いことを思えるときは何とかなるように思い、悪ばかり思えるときは、これでは助からないのではないかと思って、弥陀の救いは、まったく阿弥陀仏の独りばたらきであることが知らされていないことを、教えてくだされたのです。
そのかみ、邪見におちたる人あって、「悪をつくりたる者を助けんという願にてましませば」とて、わざと好みて悪をつくりて、「往生の業とすべき」由を言いて、 ようように悪し様なることの聞こえ候いしとき、 かつて聞き誤った人がいて「阿弥陀さまは悪人をお目当てに救うとお約束されている」のだから、わざと進んで悪を造って「極楽へ往く足しにしなさい」と言いふらし、色々とよくないことが起きていることが聞こえてきました。
御消息に「薬あればとて毒を好むべからず」とあそばされて候は、かの邪執を止めんがためなり。 そのとき親鸞聖人は、「薬がある、だから毒を好め、そんなバカなことを言うやつがあるか!あるはずないだろう」とお手紙に書いておられたのは、この聞き誤りを正されるためでした。
まったく「悪は往生の障りたるべし」とにはあらず。 しかし親鸞聖人がこうおっしゃったのは、毒が回って阿弥陀仏が助けられないと言われているのではありません。
持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、我らいかでか生死を離るべきや。 身口意の三業をよくして後生の一大事助かるのだとすれば、お釈迦さまが説かれるように「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」の私たちは、どうして救われるでしょうか。
かかる浅ましき身も、本願にあいたてまつりてこそ、げにほこられ候え。 そんな悪しかできない私たちが、阿弥陀仏の本願に救われたならば、弥陀の本願の尊さを仰がずにおれません。みな本願ぼこりにならずにおれないのです。
さればとて、身にそなえざらん悪業は、よもつくられ候わじものを。 だからといって一生悪を造り通しの私たちに、悪果が来なくなるわけではありません。当然起きてくる不幸や災難は、過去に自分が造っていない悪業の結果は、決して出てはこないのですから、自分がまいたタネなのです。
また、「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。 また聖人は「海や河で、網や魚釣りで生活する者も、野山で鳥や動物を殺して生きる者も、商人や農家で暮らしている人も、罪を造らずしては生きられない私たちは、過去世からの深い業をかかえていることはまったく同じことなのだ」ともおっしゃいました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」とこそ、聖人は仰せ候いしに、 「この親鸞も、縁さえくれば、どんなことでもするであろう」とおっしゃっています。阿弥陀仏の光明に照らされて、阿頼耶識の中にありとあらゆる悪業を持っている真実の自己をハッキリと知らされられた親鸞聖人は「阿弥陀仏に救われても、あんなことだけは絶対しないと断言できるものではない」とおっしゃっているのです。
当時は後世者ぶりして、善からん者ばかり念仏申すべきように、あるいは道場に貼り文をして、「何々の事したらん者をば、道場へ入るべからず」なんどということ、ひとえに賢善精進の相を外に示して、内には虚仮を懐けるものか。 それなのに最近は「我こそは仏法者なり」という殊勝そうな顔で、さも仏法を聞いているのは立派な人ばかりであるかのように振る舞ったり、道場にはり紙をして、「あんな人は仲間に入れないでおこう」と言っているのは、表面ばかりかっこつけて、心を見れば自分が悪人であることに気づいていないのです。
願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよおすゆえなり。 阿弥陀仏を信じて造る罪も、過去世の業力によるものなのです。
されば善きことも悪しきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にては候え。 過去世にありとあらゆる悪業があるのだから、縁さえくればどんなことでもするのですが、心や口や身体で善をするか悪をするかは、極楽へ往くには関係ありません。悪しかできない私たちは、ひとえに平生に信心決定するかどうかで往生が決するのです。
『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりの力ましますと知りてか、罪業の身なれば救われ難しと思うべき」と候ぞかし。 『唯信抄』にも「こんな罪深い私は助からないのではなかろうかとは、阿弥陀仏のお力がどれほどか分かっているのか?」とあったではありませんか。阿弥陀仏のお力に底を入れて、自分の力が役立つと思っている、とんでもない自惚れです。
本願にほこる心のあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候え。おおよそ悪業煩悩を断じ尽くして後、本願を信ぜんのみぞ、願にほこる思いもなくてよかるべきに、煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。 その自惚れが廃ったと同時に、他力に入るのです。もし悪業煩悩を完全に断ち切って本願を信ずるのであれば、本願にほこる思いはないでしょう。そもそも煩悩をすべて断ち切ってしまったら、もう仏ですから、阿弥陀仏の五劫思惟のご苦労の意味がないではありませんか。
本願ぼこりと誡めらるる人々も、煩悩不浄具足せられてこそ候げなれ。それは願にほこらるるにあらずや。 「あれは本願ぼこりだ、ダメだ」と言っている人も煩悩具足の悪しかできない身でありましょう。阿弥陀仏の本願によらずして助かりますか。
いかなる悪を本願ぼこりという、いかなる悪がほこらぬにて候べきぞや。かえりて心幼きことか。 「『悪人正機の本願だから、どんな悪をしても助かるのだ』というのは本願ぼこりで助からない」というなら、どんなすごい悪なら本願ぼこりで、どんな悪までなら本願ぼこりと言わないのか。まるで子供みたいな言い分じゃありませんか。

第14章 念仏さえ称えれば極楽へ往ける?

第14章
原文 現代語訳
「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべし」ということ。 「一回の念仏で、八十億劫という気の遠くなる長期間、私たちが造った重い罪が消えて、極楽へ往けると信じなさい」という邪偽について。
この条は十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、初めて善知識の教えにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。 この邪偽は、十悪や五逆という恐ろしい罪悪を造っている者が、日頃念仏を称えていなくても、臨終に初めて仏教の先生から教えを聞いて、一回念仏を称えれば八十億項の罪が消え、十回念仏称えれば八百億劫の重い罪が消えて極楽へ往けると言っている。
これは十悪・五逆の軽重を知らせんがために、一念・十念といえるか。滅罪の利益なり。 お釈迦さまが念仏称えれば罪が消えると教えられたのは、一つは十悪より五逆が重いというような罪の重い軽いを教えるため、もう一つは、念仏を称えることに大変な功徳があることを分からせるために説かれているのです。
いまだ我らが信ずるところに及ばず。 それなのにこんなことを言う者は、まだ阿弥陀仏の本願が信じられていないのだろう。
そのゆえは、弥陀の光明に照らされまいらするゆえに、一念発起するとき金剛の信心を賜りぬれば、すでに定聚の位におさめしめたまいて、命終すれば、諸の煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。 なぜならば、阿弥陀仏の光明に摂取され、一念で何があっても変わらない、金剛の信心を頂けば、生きているときに、いつ死んでも極楽往き間違いなしの正定聚の位に定まってしまいますから、死ねば必ず極楽へ往生して弥陀同体のさとりを得られます。念仏を称えようと称えまいと、救われた後の念仏は、往生には何の関係もありませんから、一声の念仏で八十億劫の罪が消えることが問題にならなくなります。
「この悲願ましまさずは、かかる浅ましき罪人、いかでか生死を解脱すべき」と思いて、一生の間申すところの念仏は、皆悉く「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す」と思うべきなり。 では救われたら念仏は称えないのかというと、「阿弥陀仏の本願によらなければ、私のような助かる縁手がかりのない罪人が、どうして救われることができただろうか」と、命ある限り、阿弥陀如来の恩徳を報いずにおれない喜びから、御恩報謝の念仏を称えずにおれなくなります。
念仏申さんごとに罪を滅ぼさんと信ぜば、すでに我と罪を消して往生せんと励むにてこそ候なれ。 念仏称えるごとに罪が消えると信ずるのは、自分の力で罪を消して助かろうと励んでいる自力の心です。
もししからば、一生の間思いと思うこと、皆生死の絆にあらざることなければ、命つきんまで念仏退転せずして往生すべし。 もしそうだとすれば、「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三塗の業なり」といわれるように、一生の間思うことはすべて悪ばかりなのだから、死ぬまで、念仏称えて消してゆかないと助かりません。
ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛をせめて正念に住せずして終わらん、念仏申すこと難し。
ところが、これまで果てしなく遠い過去から造ってきた悪業には限りがありませんから、その報いでどんな予想もできない事故にあったり、どんな病苦が襲ってきて臨終を迎えるか分かりません。そうなれば念仏を称えることはできないでしょう。
その間の罪は、いかがして滅すべきや。罪消えざれば往生はかなうべからざるか。
ではその間に造る罪は、どうして消したらいいのですか。死ぬまで念仏称えられなければ往生できないとでも言うのでしょうか。それでは平生業成の親鸞聖人の教えにならないではないですか。
摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて悪業をおかし、念仏申さずして終わるとも、すみやかに往生を遂ぐべし。 平生の一念におさめとって捨てられない、阿弥陀仏の本願に救われたならば、臨終にどんな予期せぬことが起きて悪業を造り、念仏を称えられずに命終わったとしても、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往って仏に生まれるのです。
また念仏の申されんも、ただ今さとりを開かんずる期の近づくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ御恩を報じたてまつるにてこそ候わめ。 また、念仏を称えていても、弥陀同体のさとりをうるときが近づくに従って、いよいよ阿弥陀仏をたのもしく思い、御恩に報いずにおれないのです。
罪を滅せんと思わんは自力の心にして臨終正念といのる人の本意なれば、他力の信心なきにて候なり。 念仏称えて罪を消そうとするのは自力の心であって、臨終の苦しみに打ち克って、心を乱さずに念仏称えようとしている人はそういう心ですから、それは他力の信心ではありませんよ。阿弥陀仏の本願は平生の一念に救われるのですから、はやく仏法を聞いて、阿弥陀仏の本願に救われなさい。

第15章 この世で仏のさとりがえられる?

第15章
原文 現代語訳
煩悩具足の身をもって、すでにさとりを開くということ。この条、もってのほかの事に候。 煩悩具足の身であるこの世でさとりを開けるという邪義について。こんなことを親鸞聖人の教えだというのはもってのほか、どこにもそんなことは教えられていません。
即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。 これ皆、難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。 この世で仏のさとりを開くというのは、真言密教の言うことで、手で印を結び、口に真言を唱え、心で大日如来のことを一心に念ずる身口意の修行を徹底してできた人のえられる結果です。法華経に説かれるのは「六根」といわれる眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根を清らかにすることで、心身を安楽にする身口意と誓願の4つの行によってえられるものです。これらはすべて難行道の修行のできる人のためのもの、結局、教えがあるだけで仏のさとりをえた者は誰もいない。観念的にさとりを考えているだけです。
来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。 死んで弥陀の浄土へ往って、仏のさとりを開かせて頂けるのが、阿弥陀仏の本願ですが、それは、この世で信心決定した人だけです。これを易行道といって、出家して厳しい修行のできない私たち、すべての人が救われる、善人悪人をえらばない教えです。
おおよそ今生においては煩悩・悪障を断ぜんこと、極めてありがたき間、真言・法華を行ずる浄侶、なおもって順次生のさとりをいのる。 お釈迦さまに次いで高いさとりを開いた八宗の祖師、インドの龍樹菩薩にして41段、厳しい修行をして、煩悩を断ちきってこの世で52段の仏のさとりをえられた人は、地球上ではお釈迦さま以外に誰もいませんから、実際は真言宗や法華宗の僧侶であっても、やはり次の生でさとりをえられたらいいなと祈っています。
いかにいわんや戒行・恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海を渡り、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく霽れ、法性の覚月すみやかに現れて、 尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候え。 ましてや厳しい戒律を守っての修行も、知恵もない私たちでも、この世で阿弥陀仏の本願の船に乗せて頂けば、苦しみ迷いの人生の海を明るく楽しく渡して頂き、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往って煩悩はなくなり、阿弥陀仏と同じ仏のさとりを得られるのです。ですが、極楽浄土へ往ったからといって自分だけ永遠に楽しく遊び暮らそうというのではありません。この世にはまだまだたくさんの人が苦しみ悩んでいますから、とてもじっとしてはいられず、すぐさま娑婆界に還来して説法し、衆生を救う大活躍をするのです。それが仏のさとりというものです。
この身をもってさとりを開くと候なる人は、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候にや。 これをこそ今生にさとりを開く本とは申し候え。 この世で仏のさとりを開くと言っている人は、お釈迦さまのように相手に応じて色々な姿を現したり、仏の特徴である三十二相・八十随形好を現して人々の幸せのために説法しているとでも言うのでしょうか。仏のさとりを開くというのは本来、そういうことです。
和讃にいわく、「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」とは候えば、 信心の定まるときにひとたび摂取して捨てたまわざれば、六道に輪廻すべからず、しかればながく生死をば隔て候ぞかし。 この世で仏のさとりを開くと言っている人たちが根拠にしているのは、親鸞聖人のご和讃「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」というお言葉です。このお言葉の意味は、阿弥陀仏の光明に一念で摂取されて信心決定したならば、二度と六道を生まれ変わり死に変わりすることはなく、迷いとは永遠に縁切りになってしまうということです。
かくのごとく知るを、さとるとは言い紛らかすべきや。 あわれに候をや。 このように知らされるのを、仏のさとりとごっちゃにしているのでしょうか。あわれだなあ……。
「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをば開くとならい候ぞ」とこそ、故聖人の仰せには候いしか。 「真実の仏教では、生きている時に信心決定して、仏のさとりを得るのは死んで浄土へ往ってからだ」と今は亡き親鸞聖人は教えられているのです。

第16章 悪を犯したら必ず懺悔しないと助からない?

第16章
原文 現代語訳
信心の行者、自然に腹をも立て、悪し様なる事をもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、必ず廻心すべしということ。 この条、断悪修善のここちか。 阿弥陀仏に救われた人は、しぜんに腹を立てたり、悪いことをしたり、法の友達と口ゲンカしたりしたら、必ず廻心懺悔しなければならないという邪義について。これは、阿弥陀仏の救いと善悪を関係づけている心でしょう。
一向専修の人においては、廻心ということただ一度あるべし。

阿弥陀仏の本願に救われた(信心決定した)人は、廻心ということは一生涯にただ一度しかありません。信心決定していない人には一回もないのです。

その廻心は、日ごろ本願他力真宗を知らざる人、弥陀の智慧を賜りて、「日ごろの心にては往生かなうべからず」と思いて、本の心をひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、廻心とは申し候え。 その廻心というのはどんなことかというと、阿弥陀仏に救われていない人が、阿弥陀仏の智慧である南無阿弥陀仏の名号を頂いて、「自力の心では助からない」と知らされて、自力の心を捨てて、阿弥陀仏の本願の名号をまるもらいしたことを廻心と言うのです。
 一切の事に朝・夕に廻心して、往生を遂げ候べくば、人の命は、出ずる息、入る息を待たずして終わることなれば、廻心もせず、柔和忍辱の思いにも住せざらん前に命つきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおわしますべきにや。 腹を立てたり、悪い事をしたり、口げんかしたりどころか、悪を造り続けの私たちが、すべてのことに、一日中、廻心しなければ往生できないというなら、人の命は、吸う息吐く息にふれあって、いつ死ぬか分からないのだから、廻心するひまもなく、忍耐して穏やかな心になる前に死んだら地獄に堕ちるとすれば、この世で絶対捨てることのない極楽往き間違いなしの絶対の幸福に救うという阿弥陀仏の本願は、むなしくなってしまうではないですか。
 口には「願力をたのみたてまつる」と言いて、心には「さこそ悪人を助けんという願不思議にましますというとも、さすが善からん者をこそ助けたまわんずれ」と思うほどに、願力を疑い他力をたのみまいらする心欠けて、辺地の生を受けんこと、もっとも歎き思いたまうべきことなり。 口では「阿弥陀仏の本願に救われた」と言いながら、心では「悪人を救う本願といっても、やっぱり善人の方が悪人よりも助けて下されるだろう」と思っているのだから、善悪を問題にしている自力の心です。阿弥陀仏の本願を疑って、他力に帰する心がないのですから、仮にどんなに善ができたとしても、浄土の近辺までしかいけないのは、非常に嘆かわしいことです。
信心定まりなば往生は弥陀に計らわれまいらせてすることなれば、わが計らいなるべからず。 信心決定すれば、まったく阿弥陀仏のお力によって往生させて頂けるのだから、これだけ善をしているのだから助かるだろうというのは、関係ありません。
悪からんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまいらせば、自然の理にて柔和忍辱の心も出でくべし。 悪しかできない者が、阿弥陀仏の御恩を知らされて、阿弥陀仏のお力によって、穏やかな忍耐の心も出てくるのです。
すべて万の事につけて往生には賢き思いを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、常は思い出しまいらすべし。 いかなる振る舞いもする極悪人を、無条件で往生させて頂けるのだから、ただほれぼれと阿弥陀仏の御恩の深くて重いことを常に思い出さずにおれないのです。
しかれば念仏も申され候。これ自然なり。 その救われた喜びから、お礼の念仏を称えずにおれないのです。これもまったく阿弥陀仏のお力です。
わが計らわざるを自然と申すなり。これすなわち他力にてまします。 これだけ善いことをしているから助かるだろうという自力の心がすたったのを自然というのです。これこそが他力なのです。
しかるを、自然ということの別にあるように、我物知り顔に言う人の候由承る、浅ましく候なり。 それなのに、自然でないことを自然だと、知ったかぶって言う人があると聞く。とんでもないことです。

第17章 化土に行くと地獄に堕つる?

第17章
原文 現代語訳
辺地の往生を遂ぐる人、ついには地獄に堕つべしということ。 化土往生を遂げた人は、地獄に堕つるという邪義について。
この条、いずれの証文に見え候ぞや。 こんなことは一切経のどこにも書いてありません。どのお聖教にあるというのでしょうか。
学匠だつる人の中に言い出さるることにて候なるこそ、浅ましく候え。 仏教の学問をしている学者がこんなことを言い出したというのは、まことに情けないことです。
経・論・聖教をばいかように見なされて候やらん。 お釈迦さまの説かれたお経、それを菩薩が解釈した論、また高僧方の書かれた書物を、どのように理解しているのでしょうか。
信心欠けたる行者は、本願を疑うによりて辺地に生じて、疑いの罪をつぐのいて後、報土のさとりを開くとこそ承り候え。 まだ信心獲得していない行者は、本願を疑っているので、もし毎日何万回も念仏を称えて、正念往生し、臨終来迎にあえた場合は、浄土の辺境である化土に生まれます。そこで疑いの罪をつぐなった後、報土のさとり、仏のさとりを開くと説かれているのです。
信心の行者少なきゆえに、化土に多くすすめ入れられ候を、「ついにむなしくなるべし」と候なるこそ、如来に虚妄を申しつけまいらせられ候なれ。 他力の信心を決定する人がなかなかいないので、信心決定まで導くための方便として化土を勧められているのですが、「ついには地獄に堕つる」などと経論釈に言われていることを否定していては、仏様を嘘つきにすることになりますよ。

第18章 財施が多い程、大きい仏になる?

第18章
原文 現代語訳
仏法の方に施入物の多少にしたがいて、大・小仏に成るべしということ。 仏法への財施が多ければ、死んだら大きな仏、少なければ小さな仏になるという邪義について。  
この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

そんなことは、どこにも教えられていない。おかしな事です。

まず仏に大・小の分量を定めんことあるべからず候や。 まず、大きな仏、小さな仏があると説かれている根拠がどこにもありません。
かの安養浄土の教主の御身量を説かれて候も、それは方便報身のかたちなり。 お経の中には阿弥陀仏の大きさ、身長が説かれていますが、それは方便法身としてのことです。
法性のさとりを開いて長短・方円のかたちにもあらず、青・黄・赤・白・黒の色をも離れなば、何をもってか大小を定むべきや。 本当は法性法身ですから、法性のさとりを開いて、長い短い、四角い丸いという形はないし、青いとか黄色い、赤い、白い、黒いといった、色もありません。それなのに何をもって大小を定めるのでしょうか。
念仏申すに化仏を見たてまつるということの候なるこそ、「大念には大仏を見、小念には小仏を見る」といえるが、もしこの理なんどにばし、ひきかけられ候やらん。 念仏称えると化仏を拝めるということは「念仏を一生懸命に称えると大きな仏、少ないと小さな仏を見る」と『大集経』に出ていますが、それにひっかけて言っているのでしょうか?もしそうなら、それと信心決定した人が死んで仏になる、ということとは全然違いますから、とんでもない間違いです。
かつはまた檀波羅蜜の行とも言いつべし。 それとも、まいた種に応じて結果が変わる、聖道仏教の考え方を持ち込んだのでしょうか。そのどちらかでしょう。
いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心欠けなばその詮なし。 いずれにせよ、どんなに仏様や僧侶に財施をしても、信心決定しなければ、死んで仏に生まれることはできません。
一紙半銭も仏法の方に入れずとも、他力に心をなげて信心深くば、それこそ願の本意にて候わめ。 たとえ一枚の紙、一円の半分も財施しなくても、一心に他力に打ちまかせて信心決定すれば、それこそ阿弥陀仏の最もお喜びになること。
すべて仏法に事を寄せて世間の欲心もあるゆえに、同朋を言いおどさるるにや。 このような邪偽はみんな、仏法にかこつけて、金が欲しいという世間の欲の心から、小さな仏になるなどと門徒を脅しているのです。何と滅茶苦茶なことでしょうか。寺や僧侶の存在意義は、一人でも多くの人が信心決定されるように、親鸞聖人の教えを正しく説くことです。それに対してこそ門徒の財施があるのですから、正しい教えを伝えなければなりません。

後序 ひとえに親鸞一人が為なりけり

後序
原文 現代語訳
右条々は皆もって、信心の異なるより起こり候か。 これら、11章から18章で取り上げた間違いは、親鸞聖人の信心と異なるところから起こったものでしょうか。  
故聖人の御物語に、法然聖人の御時、御弟子その数多かりける中に、同じ御信心の人も少なくおわしけるにこそ、親鸞御同朋の御中にして御相論のこと候いけり。 今は亡き親鸞聖人がよく語って下されたことに、親鸞聖人が法然上人のお弟子であられた時、法然門下380余人という沢山のお弟子がありましたが、同じ他力真実の信心の人が 少なかったので、お友達の中で起こった論争があります。
そのゆえは、
「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」
と仰せの候いければ、
それは、その時「善信」というお名前だった親鸞聖人が、
「この善信の信心もお師匠様・法然上人の御信心も同じでございます。少しもかわるところはありません」
おっしゃったからです。
勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もってのほかに争いたまいて、
「いかでか聖人の御信心に善信房の信心一つにはあるべきぞ」
と候いければ、
勢観房・念仏房などというお友達が、
「どうしてお師匠様の御信心とおまえの信心が同じなものか」 と猛烈に異議を申し立てました。
「聖人の御智慧才覚博くおわしますに、一つならんと申さばこそ僻事ならめ、往生の信心においては全く異なることなし、ただ一つなり」
と御返答ありけれども、
親鸞聖人は
この親鸞の智慧や才覚が法然上人と同じだといったのなら、もちろんとんでもないことでありましょうが、他力真実の信心においてはまったく異なることはありません。ただ一つです。」
とお答えされたのですが、
なお
「いかでかその義あらん」
という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御前にて自他の是非を定むべきにて、この子細を申し上げければ、
それでも
「お前の言うことはさっぱりわからん」
と、非難や疑いがあって、平行線をたどったので、結局、法然上人の御前で、どちらが正しいかはっきりさせて頂こうと法然上人に事の次第をご報告したところ、  
法然聖人の仰せには、
「源空が信心も如来より賜りたる信心なり、善信房の信心も如来より賜らせたまいたる信心な り、さればただ一つなり。別の信心にておわしまさん人は、源空が参らんずる浄土へは、よも参らせたまい候わじ」
と仰せ候いしかば、
法然上人は、
「この法然の信心も阿弥陀仏より頂いた信心、善信の信心も阿弥陀仏より頂いた信心であろう。下された方も下された信心も同じだから、ただ一つになる。因が違えば結果は異なる。この法然と信心の異なった人は、私が往く浄土へは、往けませんよ」
とおっしゃいました。  
当時の一向専修の人々の中にも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候らんとおぼえ候。 そういうところからも、当時、法然上人直々の380余人のお弟子の中でさえも、親鸞聖人の御信心と異なる、間違っていた人がたくさんあったことがうかがえます。  
いずれもいずれも繰り言にて候えども、書き付け候なり。 いづれもいづれも、また同じくり返しかと思って聞くでしょうが、書かずにおれないのです。 
露命わずかに枯草の身にかかりて候ほどにこそ、相伴わしめたまう人々、御不審をも承り、聖人の仰せの候いし趣をも申し聞かせ参らせ候えども、閉眼の後は、さこそしどけなき事どもにて候わんずらめと歎き存じ候いて、 この身も枯れ草のようになり、その上に露の命がかろうじてかかっているかのような今日この頃、共に親鸞聖人の教えを聞き求めて来た人々の尋ねられた意見不審の点もよく聞いて、親鸞聖人からお聞かせ頂いたことを、その都度お伝えしてきましたが、私の死後は、もう話もできないので、どんなにとんでもないことが伝えてゆかれるのだろうかと心配に思って、この書を記したのです。  
かくのごとくの義ども仰せられあい候人々にも、言い迷わされなんどせらるることの候わんときは、故聖人の御心にあいかないて御用い候御聖教どもを、よくよく御覧候べし。 これらのいろいろ間違ったことを、これが親鸞聖人の教えだと言う者が現れた時、それに迷う者があった時は、親鸞聖人の御心にかなって、ご使用になられたもの、聖人の書き残されたものをものさしとしてよくよくご覧頂きたいと思います。  
おおよそ聖教には、真実・権仮ともに相交わり候なり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真を用いるこそ、聖人の御本意にて候え。 仏教の教えを正しく伝えた一切のものには、永遠に変わらない真実と、真実へ導くために一時的に必要な権仮(方便)が両方説かれているのです。たとえば方便をいかだ、真実を向こう岸とすれば、いかだに乗らねば向こう岸にはわたれませんが、いかだに乗ったままでは向こう岸にはわたれませんから、最後はいかだをおり、向こう岸に到着するのです。ちょうどそのように、方便から真実に入るのが、親鸞聖人の御心であり、仏教の教えの目的地なのです。  
かまえてかまえて聖教を見乱らせたまうまじく候。 大切の証文ども、少々抜き出で参らせ候て、目安にしてこの書に添え参らせて候なり。 仏教の教えを正しく伝えた一切のものを読む時大事な心がけは、真実と権仮を誤ることのなきよう、そういう真剣さがいるのです。 だから、読んだ人が間違わない目安にしてもらえるように、大切な証文を少々抜き出して書き添えましょう。  
聖人の常の仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
と御述懐候いしことを、
親鸞聖人がいつも
「大変長い間、阿弥陀仏が考えに考え抜かれ建てられた本願をよくよく思い知らされてみれば、全く親鸞一人を助けんがための本願であった。こんな数限りもない悪業をもった極悪の親鸞を助けて下された阿弥陀仏の本願の尊さよ、ありがたさよ。」
と述懐しておられたことを、  
今また案ずるに、善導の
「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」
という金言に、少しも違わせおわしまさず。
今また考えてみると、善導大師の
「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、常に沈み常に流転して、永久に助かる縁のない者と知れ」
という御言葉に少しも違うところはありません。  
さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪の深きほどをも知らず、如来の御恩の高きことをも知らずして迷えるを、思い知らせんが為にて候いけり。 かたじけないことに親鸞聖人がご自身にひきよせられて、私たちの罪悪の深きこと、阿弥陀仏の御恩の高きことを知らずに迷っていることを思い知らせる為におっしゃったことです。  
まことに如来の御恩ということをば沙汰なくして、我も人も善し悪しということをのみ申しあえり。 善悪を問題にするのは真実へ導く方便として必要ではありますが、阿弥陀仏のご恩ということを問題にせず、善悪だけを問題にしています。
聖人の仰せには、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とこそ、仰せは候いしか。
親鸞聖人がおっしゃるには、 「私は何が善で何が悪か、まったく分からない。なぜなら、阿弥陀仏は本当の善をご存じだから、そのように親鸞も知っていれば、善をわかっているとも言えよう。また、阿弥陀仏がご存じのように親鸞も悪を知っていれば、悪をわかっていると言えるだろう。しかし知らないのだ。善悪は自分の都合で決めている。そんな煩悩でできていて自分の都合しか考えない人間が、変わり通しの、ひさしに火のついた家のように不安なこの世界に生きているから、すべてのこと、例外なく、そらごとであり、たわごとであり、まことは一つもない。ただ阿弥陀仏の本願のみが、まことなのだ」とおっしゃいました。  
まことに我も人も空言をのみ申しあい候中に、一つ痛ましきことの候なり。そのゆえは、念仏申すについて信心の趣をもたがいに問答し、人にも言い聞かするとき、人の口をふさぎ相論を絶たんために、全く仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、浅ましく歎き存じ候なり。この旨をよくよく思い解き、心得らるべきことに候。 本当に、私も人も、そらごとばかり言い合っているのですが、1つ痛ましいことがあります。それというのも、念仏の称え心や信心についお互い問答したり、話して聞かせるとき、相手を黙らせ、論破するために、親鸞聖人がまったくおっしゃっていないことをおっしゃったと主張するのは、嘆かわしいかぎりです。よくよく注意して、そういうことがないようにして貰いたい。  
これさらに私の言葉にあらずといえども、経釈の行く路も知らず、法文の浅深を心得わけたることも候わねば、定めておかしきことにてこそ候わめども、故親鸞聖人の仰せ言候いし趣、百分が一つ、片端ばかりをも思い出で参らせて書き付け候なり。 これまで記してきたことは、決して私が考えたことではないとはいえ、経典やその解釈に通じているわけでもなく、経文の深い浅いが分かっているわけでもないので、きっとおかしいと思われることもあるでしょうが、今は亡き親鸞聖人のおっしゃった100に1つでも、少しでも思い出して書きとめたのです。
悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして辺 地に宿をとらんこと。一室の行者の中に信心異なることなからん ために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。 幸いにも、念仏する身になりながら、直ちに真実の浄土へ生まれず、浄土の近辺にとどまったならば何と悲しいことでしょう。ともに聞法する法友の中に、信心の異なることのないように、泣く泣く筆をとり、この書を記したのです。  
名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。 これを『歎異抄』と名づけましょう。仏縁の浅い人には見せないようにしてください。  

註記 親鸞聖人の非僧非俗の宣言

註記
原文 現代語訳
後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。 後鳥羽上皇の時代、法然上人が、他力本願念仏宗を興されました。  
時に興福寺の僧侶、敵奏の上、御弟子中狼藉子細あるよし、 無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数の事。 時に奈良の興福寺の僧侶が、憎み、朝廷に直訴したことから、法然上人のお弟子に風紀を乱す者がいるという事実無根の噂によって、罪に処せられた人数は以下の通りです。
一。法然聖人并びに御弟子七人流罪、 又御弟子四人死罪に行わるるなり。 一。法然上人と、お弟子7人が流刑、また、お弟子4人が死刑に処せられた。
聖人は土佐国番田という所へ流罪、 罪名藤井元彦男と云々、生年七十六歳なり。 法然上人は、土佐の幡田という所に流刑。 罪人としての名前は、藤井元彦男と言われました。76歳の時でした。
親鸞は越後国、罪名藤井善信と云々、生年三十五歳なり。 親鸞聖人は越後の国、罪名は藤井善信、35歳の時でした。
浄聞房備後国、
澄西禅光房伯耆国、
好覚房伊豆国、
行空法本房佐渡国。
浄聞房は備後の国、
澄西禅光房は伯耆の国、
好覚房は伊豆の国、
行空法本房は佐渡の国へ流刑にされました。
幸西成覚房・善恵房二人、同じく遠流に定まる。 しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあずかると云々。
遠流の人々已上八人なりと云々。
幸西成覚房・善恵房の2人も、同じように流刑に定まっていましたが、無動寺の善題大僧正が、身柄をあずかったので免れました。流刑にあったのは以上8名でありました。
 死罪に行わるる人々。
  一番 西意善綽房、
  二番 性願房、
  三番 住蓮房、
  四番 安楽房。
 二位法印尊長の沙汰なり。
死刑になったのは、以下の人々であります。
  一番 西意善綽房、
  二番 性願房、
  三番 住蓮房、
  四番 安楽房。
 これは「二位の法印」といわれた尊長の裁判結果です。
親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧に非ず俗に非ず、 然る間「禿」の字を以て姓と為して奏聞を経られおわんぬ。 親鸞聖人は、このような刑罰を受け、もう僧侶でもなければ、俗人でもないから、「禿」という字をもって姓とし、朝廷に奏上されました。
彼の御申し状、今に外記庁に納まると云々。 流罪以後「愚禿親鸞」と書かしめ給うなり。 その上申書は、今も外記庁に納まっているといわれます。 このようにして流刑の後は、署名される時はいつも「愚禿親鸞」と書かれるようになったのです。

奥書 仏縁浅い人に見せてはならない(蓮如上人)

奥書
原文 現代語訳
右この聖教は、当流大事の聖教たるなり。 歎異抄は、浄土真宗で大事な本です。  
無宿善の機に於ては左右無く之を許すべからざるものなり。
釈蓮如
親鸞聖人の教えを余り聞いたことのない人には、誰にでも拝読させていいというものではありません。
釈蓮如

『歎異抄』の本質を学ぶ

歎異抄』には、仏教を聞かなければ知ることのない他力信心の極致、本当の幸せに救われた世界ばかりが記されています。
その『歎異抄』の本質をよりよく理解できるように、『歎異抄』に明かされた本当の生きる意味がわかるメール講座と、どうすれば『歎異抄』に説かれた本当の幸せの世界に出られるのかをまとめた小冊子をプレゼントしています。以下のページから今すぐご覧ください。

ページの先頭へ